「修身」という言葉が広がったのは、江戸時代に儒学が普及し、四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)が各地の藩校などで読まれ、その中でも「大学」の中の教訓を「修身・斉家(せいか)・治国(ちこく)・平天下(へいてんか)」という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に親しまれるようになったからである。
明治維新によって藩校はなくなったが、明治14(1881)年の「小学校教則綱領」で、修身は各教科の首位に置かれ、明治憲法発布の翌明治23年には「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜(かし)された。以降、わが国では、この教育勅語を道徳教育の根幹に据えてきた。
教育勅語の大きな特徴は、いかなる宗教、宗派とも関係がないことである。欧米の道徳教育は主として教会が宗教教育として行ってきたが、日本では、万人が認める普遍的徳目を学校が教えたのである。
さらに、宗教との関係がないことと関連して、教育勅語は自然科学の発達とも衝突することがなかった。例えばキリスト教であれば、キリストによる奇跡を信じなければならず、「旧約聖書」の記述であれば、進化論とは相いれない部分が出てくる。今なおアメリカの一部の州では、こうしたことが教育界の問題になっているが、教育勅語はすでに19世紀後半に、自然科学の発達と衝突しない倫理的な教育目的を堂々と明らかにしていた。だからこそ、その近代性と普遍性は大いに注目されたのである。
当時、教育勅語は英・仏・独・漢の訳本も作られて諸外国に配布されたが、どこからも反対や批判はなく、むしろ賞賛の声ばかりだった。先の理由に加え、軍国主義や侵略につながるような文言は何もないのだから当然である。
ただ、あえて難癖(なんくせ)をつける人がいるとすれば、教育勅語が「御名御璽(ぎよめいぎよじ)」として、天皇陛下のお名前で出されている点であろう。しかし、考えてもみてほしい。教育勅語が出されたのは明治23(1890)年。まだ維新の混乱から二十年余りである。明治天皇のもと、新国家として国民をまとめていく中で、「誰がお出しになったものか」を明確にするのは当然だった。さらに言えば日清戦争(明治27年)より数年前の話であり、当時の日本はむしろ清国の大戦艦に威嚇されているような状態だった。大国意識や軍国主義など持ちようもなかったのである。
教育勅語の最初の部分は、日本の皇室が永く続いていることを述べているに過ぎず、これは事実である。「忠」や「孝」といった徳目の部分にしても、どこの国であっても国家への「忠誠」や親に対する「孝行」を否定するはずがない。さらに、最後の部分では、こうした徳目が古今東西に普遍であることを強調しており、天皇陛下御自身もその徳目の実践に努力しよう、一緒にやろうと述べられている。
このような文章に反対する国や人があるはずはないにもかかわらず、教育勅語は戦後、左翼文化人の「教育勅語は軍国化の恐れがある」という主旨の申し入れを受けたアメリカ占領軍の示唆を受けて廃止になったのである。占領軍もはじめから教育勅語の廃止を考えていたわけではなかったのだ。
「国民の修身」渡部昇一