今年、私は八十二歳《この書籍が発行された平成24年のことか》になるが、この年になって幼少時に「よい話」を聞かせることの重要性に偶然気がついた。それは古い『キング』という雑誌の付録の小冊子を書庫を片付けながら広げた時のことである。そこには大チェリストのカザルスがパリーに住んでいた貧学生のころ、日記を二週ぐらいまとめてはスペインにいる母に送り続けて、母を安心させたという話が書いてあった。

それを見て私はアッと驚いたのである。私が東京に出たのは昭和二四(一九四九)年で、まだ東京の大部分は焼け野原にバラックで、食糧事情は緊迫していた。寮の夕食では米がなく、サツマイモ三、四本と福神漬だけということもあった。もちろん郷里の親はそれを心配していた。それで私は毎日簡単な日記――たいてい食事の中身——を書いてまとめて送った。

また後にアメリカに客員教授で出かけた時は——当時の条件で家族同伴は許されなかった――東京で子ども三人と留守居をしている家内に簡単な日記を送り続けていた。私はこの「日記を送る」という行為を自分で考え出した名案と思っていた。

そうではなかったのである。小学生のころにカザルスの話を読んでいたのだ。私はカザルスの名も知らず、チェロという楽器を見たこともなければ聞いたこともなく、その名も知らなかったが、この話を読んで、「いい話だな」と思ったらしいのである。それつきり私の潜在意識の底に沈みっぱなしになっていたらしい。ところが自分が敗戦後間もない東京に出て、郷里の母が心配していると思った時、日記を送ることを思いついたのである。もちろんその時はカザルスの話は念頭にない。

「ああ、こういうのが子どもに修身のような話を聞かせることの意味なのか」と私は悟った。子どもはいい話を聞いた時には素直に感動する。

子どもは善悪には不思議に敏感なところがあり、テレビの物語でも絵本の物語でも、主人公的な者を指しつつ「これは良い人?悪い人?」と聞くものである。子どもの時に読んだ話は、その時に感心してもすぐ忘れる。しかし十年も二十年も経ってから、人生のある局面においては、昔読んで、感心して、忘れていたような行動を選択するものなのではないか。

昭和一七(一九四二)年二月のジャワ沖開戦で、イギリスの重巡洋艦エクゼター、駆逐艦エンカウンターが撃沈された時、日本の駆逐艦「雷(いかづち)」は四百名以上のイギリスの軍人を救い上げた。敵潜水艦がいるかもしれない危険な海上で、工藤俊作艦長の行ったすばらしい行為はイギリス軍人たちを感激させた。その様子は恵隆之介『海の武士道』(産経新聞出版)に詳しい。

日本海軍は日露戦争の時、蔚山(うるさん)沖でロシアの軍艦リューリック号を沈めた際、上村彦之丞提督は戦闘を中止して海中の敵兵を助けるという国際的美談を残した。これは日本人の誇りでもあり、佐々木信香作詞佐藤茂助作曲の『上村将軍』という歌になった。駆逐艦「雷」の艦長だった工藤艦長も若いころにこの歌を歌っていたのではないか。この工藤艦長の行為のおかげもあって、戦後もイギリス海軍には反日感情が薄かったという。

『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)